話のたねのテーブル

植物や虫、動物にまつわるコラムをお届けします。
No.48
「ガラパゴス」にはならなかった島―その4.グローバリゼーション―
執筆者:高橋敬一
2009年08月26日

 前回は島に人が移り住んだころのお話をしましたが、今回はこの島にさらに新しい別のタイプの人たちがやってきた現代のお話です。たとえばみなさんが住んでいる町に、ある日たくさんの外国人がやってきて好き勝手し放題を始め、なんだかよく分からないものを建てたり、じぶんたちだけで楽しんだり、わたしたちの生活を写真にとったり、彼らのものの見方でわたしたちを批判し始めたらどう思うでしょうか。たとえ彼らが「わたしたちはきみたちのことを思ってやっているんだよ。決して悪いようにはしないから」と約束しても、大きな不安や不愉快さに襲われることはまちがいありません。
 人間という生き物は自分が好きなように環境を変えても平気なくせに、他人によってもたらされる環境の変化をひどく恐れます。その変化が自分にとって不利をもたらすかもしれないからです。人間が初めて上陸したとき島に住んでいた生き物たちが受けたのと同じ脅威に、島の人びとはさらされ始めました。島へ入ってきた外国人がたとえ善意の人であっても、彼らが持つ価値観と島の人が持つ価値観とが異なるものであることを、強者である外国人は理解してはいません。そして島の人を彼らの価値観で判断してしまいます。

 島の人びとも、先進国の人たちが期待しているような「自然と共生する純朴な人びと」などでは決してありません。価値観こそ違うものの、人間ならだれもが持っている欲望を同じように持ち、外部からやってくる人間に主導権をにぎられたくないのと同時に、物質文明への強いあこがれも隠せません。島へ出稼ぎにきているフィリピン人を島の人たちが時に犬のように差別するのも、技術力はないが(援助によって)金は持っている島の人たちが、技術力はあるけれども金のない出稼ぎ労働者たちに対して持つ劣等感(不安)の裏返しであると言ってもいいでしょう。策略の限りを尽くしながら外部から金をむしりとり、それでいて外部による支配を極力排除しようとする島の人たちの姿勢は、人間の歴史のなかでこれまで多くの国々が取ってきたごく普通の姿勢でもあります。

 とはいうものの外部世界からの情報は、テレビなどを通して島の人びとの目に止めようもなく入ってきます。その一方で集落内の相互監視の目は従来どおりゆきわたっていて、外部と島という二つの異なる世界のあいだで激しい葛藤にさらされる若者たちの自殺率は、いまや世界中で最高レベルに達しています。
 この島を訪れる外国人のうちのいったいどれほどの割合が以上のことを了解しているでしょう。日本などにおいて、この島は相変わらず「南の楽園」として宣伝され続けています。観光客は自らが属する集団の価値観にもとづいてこの島を体験し、「自然と共生する純朴な人びとの住む美しい島々」を賛嘆してやみません。観光によって金を得ようとする島の人びとは、そうした虚構の世界を支えることで彼らの生活を維持しようとし、そうした機会の得られなかった他の人びとによって非難されもします。しかし非難する方も、外部とのつながりができさえすればその態度を変える準備はいつでもできているのです。

島の子どもたちはテレビや雑誌などを通して外の世界のことをよく知っています。でもじっさいに外の世界に出ていくことができ、なおかつそこに適応できるのは、ごくごく限られた少数の子どもたちだけです。 (角鹿康武氏撮影)
オオコウモリのスープ。海洋島に住む数少ない固有ほ乳類であるオオコウモリは、島の人にとってなによりのごちそうです。オオコウモリは樹木の受粉者として島の生態系の維持になくてはならない存在でしたが、乱獲によって急速に個体数が減ってしまいました。その代わり、ハチミツをとるために持ち込まれたセイヨウミツバチが野生化してあちこちを飛び回っています。