話のたねのテーブル

植物や虫、動物にまつわるコラムをお届けします。
No.88
「ガラパゴス」にはならなかった島―その8.島の人たち(その1)―
執筆者:高橋敬一
2010年05月12日

「日本の歌はいいなあ」
 事務所のラジオから流れる美空ひばりの歌声を聴きながら、農業局の同僚、アルベルトさんがしみじみと言いました(ラジオは一日中つきっぱなしです)。この島は戦前、長い期間にわたって日本の統治下にありました。そのためいまでもラジオからは日本の歌がひんぱんに流れてきます。
 習慣となったビータルナッツ(ヤシの一種であるビンロウジュの実を石灰、たばこ、キンマというコショウ科のつる植物の葉などと一緒に噛む嗜好品。酔ったような状態になります)をくちゃくちゃと噛みながら、アルベルトさんの眼球はもうほとんどうしろへひっくり返りそうにうっとりとしています。
「ひばりはまだ健在かい?」やさしく聞くので、私は読みかけの論文から目を上げ、冷たく言い放ちました。「この前も言いましたでしょ。もうずいぶん前に死にましたよ」

 アルベルトさんはとても悲しそうな顔をしました。「ああ、そ、そうか、そうだった・・・」

 アルベルトさんが急に気の毒になって、私は取り繕うように言いました。「ああ、でも、今もファンは多いですね」
「おお、そうか、やっぱりひばりが一番だなあ」ちょっとばかりちゃちゃを入れたくなっていた私も下を向いて、「そうですよねえ」と答えたのでした。
 アルベルトさんは私より三つ年上ですが、私のことをいつも「お前はおれよりオールドマンだ」と言います。たしかに私の方が白髪は多いでしょう。それにアルベルトさんはいつも私などよりよほどいい服装をしています。私は坊主頭に穴の開いたTシャツをかぶり、生地が薄くなってぼろカーテンのようになったジャージをはき、足はいつも素足にビーチサンダルです。その一方でアルベルトさんは、ポマードで髪をきっちりとなでつけ、しゃれたシャツと短ズボンをはき、白い運動靴をいつも大事そうに磨いています。
 車のないアルベルトさんのために私は毎日送り迎えをしていましたが、若い女性旅行客が歩いているのを見つけると、アルベルトさんはいつもきまって、満面の笑みで、「おーい!」と声をかけます。私はそれが恥ずかしくてしかたありませんでした。
 あるときエルニーニョ現象に起因すると思われる干ばつが始まり、それに伴う給水制限も始まりました。「いよいよ始まりましたねぇ」林野局で働いているカシュガルさんに言うと、「始まったねえ」といかにも感慨深そうです。「あれだよ、もう昼間はあんまり働いちゃだめだよ。シャツもズボンも洗濯なんか週に一回になっちゃうからね。シャワーなんかもできないから海で行水するしかないんだよ。困ったねえ」
 傍らでビータルナッツをくちゃくちゃやりながら遠くを見ているアルベルトさんに、「困りましたねえ」そう言うと、「お、ん? おお、残りのビータルナッツは職場の女の子に全部あげちゃったんだ。だからもうないんだ。うわっ、うわふっ、うふっ、ふっ」そんなふうに笑うばかりで、もうお話にもなりませんでした。

アルベルトさん
島の男の子たち(ハローウィン)