この国には台湾政府の農業技術支援農場があり、周さん、林さん、許さんの三人が常駐して島の人たちに農業を教えていました。農場長の周さんはいつ会っても自信満々で、四六時中大きな声で、農業についてのまぶしいような演説を繰り返しています。私は周さんたちが管理する大きな農場へしょっちゅう遊びに行っていましたが、周さんたちはそこでだれもが驚くようなすばらしい作物をたくさん作っていました。しかしその一方でこの農場は、外国からの支援が持つ問題点を見事に浮き彫りにしていました。
広大な敷地では様々な果樹や野菜が栽培され、しかもそのいずれもが、世界中のどこに出しても恥ずかしくないようなすばらしい芸術品のようなできばえです。畑での作業は林さんや許さんの指導の下で出稼ぎのフィリピン人が行っていました。もちろん島の研修生も受け入れていましたし、頻繁に農場を開放しては、すばらしい作物を来場した人たちにタダで配ってもいました。
そんなとき、来客を前にいつも決まって周さんの大演説が行われます。「みなさ~んっ! この島ではっ! こんなにすばらしい作物ができるので~すっ!」人びとは頷き、大きな拍手が起こります。それがもう十数年も続いていました。それにも関わらず、この農場の外で、こうした立派な作物が作られることもなければ、研修を終了した島の人が何か行動を起こすようなことも決してありませんでした(彼らの目的は研修の修了書だけでしたから)。すべてはこの農場の中だけでの神話でした。農場の土地の肥沃度が当初からずば抜けていたわけではありません。農場にだけ雨が降るわけでもないし、農場にだけ病害虫が発生しないわけでもありません。違うのはただ、農場を運営しているのが台湾人とフィリピン人であるということだけでした。
いったい何がいけなかったのでしょう? 問題は前提にありました。周さんたちの努力の元になっている前提、すなわち、教育を施し、成果を見せれば、やがて島の人たちも自発的に同じようなことを行うようになるだろう、そういう前提がここではまったく成り立たないのです。ちなみにこれは日本人が立てる典型的な前提でもあります。それでも周さんは、どこへ行っても彼独特の力強い演説を決してやめようとはしませんでした。
この農場以外でもこのようなすばらしい作物を作る方法は、たったひとつだけあるにはありました。周さんたちが島の農業をすべて一手に引き受けるのです。周さんと二人きりの時に私は尋ねたことがあります。「周さん。周さんは本気で、この農場内で作っているような作物が、農場の外でもできるとお思いですか?」彼は私の顔をじっと見つめ、一瞬沈黙しました。「確かにわれわれは無惨な数々の失敗をここで続けてきた。しかし・・・」そう言って周さんは、これからの計画を話し始めました。莫大な台湾国費をつぎ込んでなんとかここまでやってきた周さんの話は、やはりそれまでと同じように力強いものでした。それが周さんの本心なのか、それともそう言うのが農場長としての義務であるからなのか、私にはとうとう最後まで分かりませんでした。それでも周さんに対する私の尊敬の念は、その後もずっと変わることはありませんでした。