話のたねのテーブル

植物や虫、動物にまつわるコラムをお届けします。
No.5
立ち上がる雑草
執筆者:岩瀬 徹
2009年02月25日

「廣島の焼野ヶ原は原子沙漠といはれてゐますが、その原子沙漠に今や数々の雜草が雄々しく立ち上がってゐます。閃光一瞬!廣島の人達がかうむった如く、かれら雜草の大半は死滅したものと思はれてゐました。當時の強烈なウラニウムの放射は廣島に70年間生物を住ましめぬだろうといってゐましたが、廣島復活の先駆は實にナズナ、ウマゴヤシ等の雜草達によってなされたのです。」(漢字、かなづかいは原文のまま)

これは1946(昭和21)年9月に発行された「採集と飼育」の8巻8,9合併号に掲載された「立上がる雜草」と題する結城一雄氏の文章の書き出しである。
広島に原爆が投下されたのは1945年の8月6日だった。一瞬にして想像を絶する犠牲が出た。その翌年、廃墟の中爆心地から1500mの圏内を歩いた結城さんは、そこに芽生え成長した雑草たちを見て感動し、早速記録をとったのであろう。
4枚の写真が添えられている。その1枚は広島城付近に咲くタンポポで、説明にこう記されている。
「タンポポよ! 君は雄大な廣島城の崩壊の恐怖を見たであらう。それにしては何といふ平和な安らかな姿をしてゐるのだ」
終戦の直後、人々は住むところも食べ物もない混乱の時代であった。もちろん紙もインクも乏しい。そんな中をこのような観察をし記録をとったことはすごいと思うし、さらに「採集と飼育」という雑誌の発行(内田老鶴圃)を続けたこともまたすごいと思う。私はこれを手に入れたときこの二重の感動を覚えた。紙質は悪く変色して破れそうだが、大切な宝物である。

結城一雄氏の「立上がる雜草」には1946年に観察記録した87種が記載されている。それは次の通りである。(カナ表記は原文による)
このリストを見ると、関東でも身近に普通に生育するものが多い。雑草というより野草に近い種もある。帰化植物は17種で、その割合(帰化率)は約20%、最近の都市の状況と比べれば大変低い値である。これが40年代の街なかの姿であったのだろうか。帰化種としては古株のメンバーと見てとれる。
いずれにしても、原爆の廃墟から緑の修復の先駆者となったのが、雑草群であったということはまことに興味深い。

採集と飼育
雑草一覧
平成の時代の原爆ドーム。緑が繁っている